忍術、忍者とは

忍術とは

忍術を定義づけるのは大変困難なのですが、狭義では「忍び」本来の意味である、戦場において敵軍に潜行する情報収集をはじめ、変装術や心理学を含む密偵術と、広義では江戸時代の忍術伝書に記されるような密偵術を含む剣術や火術、呪術、薬学、天文学など、総合的なものの2つに大別できます。伊賀流忍者博物館では、忍術伝書の中から主に「密偵術」の部分を大きく扱い、さまざまな民俗資料や術の解説についての展示を中心に行っております。

日本地図 伊賀の場所

伊賀忍者の歴史

忍術を使う人を忍者と呼びますが、忍術の起源には多くの説があり、他の武術のように始祖などもはっきりしておりません。一説には、聖徳太子に仕えた大伴細入という人物が、その働きから最初の忍者であるともいわれていますが、史料が少ないために伝説の域を脱せないのが現状で、伊賀の場合は、鎌倉時代に荘園の中で発生した「悪党」に起源を求めるのが現実的です。

伊賀は奈良時代以降、東大寺や興福寺などの多くの荘園がありました。悪党とは、もともと土着している地主のような人の中で、寺院や貴族の領地である荘園に対して反抗的な行動をとった人達のことです。彼らは荘園領主に対して奇襲や撹乱などの戦法を駆使しました。悪党の中には、修験道と関わりをもった者もおり、そこで山伏の戦法を学び、先達として各地を巡る際に情報収集を行ったことも考えられます。有名な百地氏も、もともとは悪党であった大江氏の一派といわれており、実際に大江氏の一族が大峰山で修行したという記録が残っています。加えて伊賀周辺には、霊山や笠置山、赤目四十八滝など修験に関わる地が多く、役行者信仰も盛んでした。

室町時代に入り、荘園を経営する寺社勢力が衰微するにつれて、悪党の活動は徐々に消失していきますが、今度はその血を引いた「地侍」が頭角をあらわします。戦国時代、彼らは古記録に「伊賀衆」として登場し、周辺各地の戦国大名に従軍して、傭兵として京都や奈良、滋賀、和歌山へ出陣していたことがわかっており、その戦術は夜襲や密かに忍び入り火を放つことが中心であると記されています。この頃より、伊賀衆は「忍び」と呼ばれるようになります。

江戸時代、藤堂藩の治世になると、忍びと呼ばれた人々の子孫は「伊賀者」として、参勤交代の際の藩主の護衛役や国内の情報収集にあたったり、または「無足人」という農兵として帯刀を許され、各村の自治を任されたりしました。これらのことから、伊賀の忍者は誇り高き武士であったと言えるでしょう。

このように伊賀流忍術の根本は、修験山伏の使った術が悪党や地侍へと引き継がれたもので、それが時代と共に変化し、江戸時代になって伝書にあるような広義の忍術としてまとめられたと考えられます。俗に忍術の百科事典といわれる『萬川集海』を著した藤林氏も地侍の家系でしたが、江戸時代になり、伊賀者として採用されてからは上野城下町に住まいを移しました。他に、商人などに職を変えた忍びの末裔も、城下町には存在したとみられています。先人の知恵の結晶である忍術伝書は、現在も伊賀の旧家では大切にしているところもあり、苦難に満ちた時代を生き抜いた忍びの心を今の私達にも伝えています。

主要参考文献

久保文武『伊賀国無足人の研究』
新井孝重『中世悪党の研究』
黒井宏光『忍術教本』
『伊賀市史』第4巻 資料編 古代・中世 ほか

伊賀惣国一揆

荘園制時代の伊賀は、国司や国主(守護職)が長く続きませんでした。伊賀の国人は、荘園ごとに同族単位で生活圏を設け、所領の農民を組織して一党をなし、中央政権の支配に服従しなかったので、守護職は50とも60ともいわれる伊賀の国中の一党の中から有力な12人の評定衆(代議員)を選び、協議により伊賀の治安を維持していました。これを伊賀惣国一揆と言います。

天正伊賀の乱

天正6年(1578)伊勢の国司北畠信雄(織田信長の二男 織田信雄が北畠の養子になり家督を継承)は丸山城を基点に伊賀攻略を企てますが、伊賀衆の攻撃にあって撤退します。天正7年(1579)仕切りなおして北畠信雄が伊賀に攻め込みますが、伊賀衆の抵抗にあって敗退します。(第一次天正伊賀の乱)これを聞いた織田信長は激怒し、自ら出馬を決意し、天正9年(1581)5万の大軍を率いて伊賀に進軍、伊賀全土を焼き払い大人子どもに関わらず殺戮を繰り返しました。伊賀衆は最後まで抵抗を続けましたが、和議が成立し、降伏しました。伊賀地域が歴史上唯一壊滅的な打撃を受けた乱で、800年の歴史を持つ伊賀地域の荘園制度が終焉し、忍者は諸国に離散しました。(第二次天正伊賀の乱)

忍術伝書

現存する忍術伝書の中で、『萬川集海』『正忍記』『忍秘伝』を三大忍書と言います。
多くの伝書は江戸時代に書かれていますが、それ以前は口伝でした。伝承・備忘のために活字化されたと推測されます。「口伝あり」の文字が目立つ伝書ですが、口伝で伝えられる事の方が重要だったのかもしれません。

  • 『萬川集海』 藤林保武著
    伊賀、甲賀流忍術を集大成したもので、伊賀と甲賀の双方に数種の写本が伝えられます
  • 『正忍記』 藤林正武著
    紀州流の伝書
  • 『忍秘伝』 服部半蔵著
    伊賀、甲賀の伝書

萬川集海 写真

忍者の呼び方

今は「忍者(NINJA)」の呼び方で統一されていますが、昔は忍者と呼ばなかったのをご存じですか?時代によっても、地域によっても違う呼び方がたくさんありました。
その一部を紹介しましょう。

時代別

  • 飛鳥時代—志能便(しのび)
  • 奈良時代—伺見(うかみ)
  • 戦国時代—間者(かんじゃ)・乱破(らっぱ)
  • 江戸時代—隠密(おんみつ)
  • 大正時代—忍術者・忍者(にんしゃ)

地域別

  • 京都・奈良—水破(すっぱ)・伺見(うかみ)・奪口(だっこう)
  • 山梨—透破(すっぱ)・透波(すっぱ)・三ツの者・出抜(すっぱ)
  • 新潟・富山—軒猿・間士・聞者役(ききものやく)
  • 宮城—黒はばき
  • 青森—早道の者・陰術(しのび)
  • 神奈川—草・物見・乱破(らっぱ)
  • 福井—隠忍術(しのび)

他にも地域によって様々な呼び名がありますが、代表的なものを紹介しました。
当て字ですが「しのび(忍)」に関係するもの、仕事に関係する呼び方(聞者役など)、見たままの呼び方(早道の者など)色々ありますね。

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