薬学 |
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治療から暗殺まで 薬草多彩 地の利生かす |
かって忍者は薬学の専門家でもあった。一口に薬といっても、病気や傷を治すものから、反対に暗殺に用いる毒薬、人を操る幻覚剤まで幅広くある。例えば、病気を治して人にとり入り、目的の人物に近付いて毒薬で暗殺する。これなどは戦乱の時代における、忍者ならではの仕事だった。 忍者が薬学に精通していた理由は、そのルーツである山伏(修験者)の活動にさかのぼる。山伏は神札を配布するために全国各地を巡回しており、情報収集の能力にたけていた。ここに、忍者としての側面が見られる。また、加持祈祷も行っていた。病気を加持祈祷で治していたわけだが、実はこっそりと薬を使っていたという。山伏の行場は主に内陸部の山岳地帯にあった。伊賀の四十九院、甲賀の飯道山はかつて山伏の修験道場として栄えるとともに、忍者の修行場でもあった。それらの山はふもとの低いところから山頂の高所まで、さまざまな種類の薬草が採取できた。周囲を山々に囲まれていた伊賀も甲賀も、薬草に恵まれた地域だった。 とりわけ甲賀は、昔から有名な薬草の産地だった。奈良の正倉院に保管されている薬草は、大半が近江の国で採れたものだという説もある。実際、当時の記録によると、近江の国の薬草の生産量は全国一と記されている。伊吹山から鈴鹿山脈、南近江の山々から甲賀の飯道山にかけては、多種多様の薬草が生育する、気候風土に適した地域だからだ。それに加えて伊賀、甲賀には、薬草の知識を持つ渡来人が多かった影響もある。 明治十七年の配札(修験)禁止令とともに、山伏は姿を消した。甲賀でば配札の本業を奪われた山伏たちが、それまで副業だった製薬業に移行。配札先がそのまま売薬の得意先となった。有名な甲賀配置売薬の始まりである。今では「薬の町・甲賀」のキャッチフレーズのもと、たくさんの製薬会社がある。これは、かつての山伏、すなわち忍者たちの遺産ともいえよう。 |